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「まいたけ」さん

八雲病院に勤務した10年は『まいたけ』さんとの二人三脚でした。

多くの方が療養生活を続けるこの病院で、「何か困ってることある?」「何かしたいことはありますか?」と尋ね歩いていたところ、彼からの「今何したいかって?うーーん。そうだなー。ゆっくり休みたい!(^-^)」
と言われたことは衝撃でした。

彼が21歳の頃、「24時間の呼吸器になってしまったら、寝たきりになってしまうんだろな」と正直思っていたそうです。それが、たまたま夕食後に看護師さんに切り替えてもらったテレビのチャンネルで、NHKスペシャル「わが分身たち」が放映されていました。同じ筋ジストロフィーである南九州病院の轟木さんと、リハエンジニアの畠山卓朗先生との出会いを目の当たりにしてから、「あきらめなくていいんだ。いろいろとやってみよう」と思ったそうです。

彼はある意味、従順な患者ではありませんでした。
ある日、彼の使っているマウスを他の患者さんにも紹介したいから貸してと頼んだところ、不機嫌な顔をして、
「先生は、自分の手を貸してと言われて、切り取って貸したりする?僕らにとって、道具はたんなる身体の一部なんだよ。」と。

彼からはいろいろと学んだというよりも、一緒に考え成長したきた感じです。

彼とのエピソードは、ここで語り尽くせないほどですが、「先生?ぼくらだって驚いたり、笑ったりするときに、ジェスチャーをするんだよ」と、指先のわずかな動きで、「驚き」を表現していたりと、ちょっとしたことで人を笑顔にさせるセンスの持ち主でもありました。

私よりちょっと、年上のまいたけさんは、よく悩みをきいてくれました。臨床実習生の学生も困ったら、「まいたけ」さんに話を聞いてもらう感じでしたから。

「何で、僕が最初なんだよ!!」と怒りをあらわにし喧嘩したことも数え切れないぐらい。スイッチ・環境制御装置・車いす・など、運動機能障害の進行に応じて、彼はいつだって、なにより先人をきって前向きに自分の活動を追い続けていました。

病態が悪くなってからも病室で、「HPに何か書いておくことはある?」「いや、状態がよくなってから書くよ!」と、
意識がとぎれとぎれの彼の思いでした。

そういえば、彼が頼まれた原稿で相談されたときがありました。
「死というテーマで原稿がきたんだけど、先生っていつも考える?」「いや。何かあったときだよね。」「そうだよね。僕だってそうなんだけど、つい人工呼吸器をつけていると、そうおもわれるんだよね。」「僕らって病気と闘っていると言われるけど、別に戦士じゃないんだけどね。。。(*^_^*)」

やはり、あなたは、戦士でしたよ。

「先生?いきがいってなに?」「どうしたの突然?」「この前看護学生さんが担当になったんだけど、『たけ』さんの生き甲斐って何ですかって?」「なんて答えたの」「はっは。うーーん。これといったものはないんだけど、好きなことがたくさんあるから、それをいっぱい出来ている時間が、いわば僕の生き甲斐かな。」

「まいたけ」さん、ありがとうございました。