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さあお仕事ですよ!

ファイル 797-1.jpg

壁一面に貼ってあるのは、函館市内の道路地図。

このマップをデジタルデーターにおこし、段差や車いすトイレの有無などの、バリアフリー情報を書き入れる仕事をしています。

まい・エピソード: 僕があるかなくなった理由。

自分のことはよくしっているけど、でも他の人は?
コレスペでは、そうした、「あの時」「あの場面」でのみんなのエピソードをあつめて紹介していきたいと思います。
まずは、第一弾。「僕が歩かなくなった理由」
デュシェンヌ型筋ジストロフィーの場合、自然歴では、9歳~10歳には歩行ができなくなるといわれています。でも、明日から急にあるけなくなったわけではありません。そのときのエピソードは。。

A氏の場合
:「車いすじゃないと学校には通えないといっていたよ~」
そう母親から聞かされた時、「なぜそんなことをいったんだー」と、強い怒りがあったことを覚えている。
 うろ覚えだが、教育委員会もしくは学校校長が、母にいったそうだ。
当時は、歩行器で学校の中は移動していた。使いたくもなかったが、小学校3年生の時、当時はまだ歩行器を使わなくても歩けていたが、危ないからと、療育センターで自分用につくってもらった歩行器を学校でも使うことになった。しばらくして気づいたのは、歩行器を使うことで歩けなくなっていたことだ。
だいぶ前より、車いすのほうがよいとはいわれていたが、4年生になる新学期にあわせて、車いすに変えることにした。
教育委員会や学校側に怒りをぶつけていたが、あとあと聞くと、もともと、教育委員会からは、養護学校に行きなさいといわれていたようで、それを校長先生が、なんとか学校に通えないかということで、手すりの設置をしていてくれたらしい。今回の車いすのこともそのような配慮の一つだったと思う。
卒業してからは、その校長先生と会うことはないが、在学中は、しょっちゅう、母親につれたれて自宅にいっていた。
校長室で、五目並べをしていたことを覚えている。

C氏の場合
:最近転びやすいと感じていた。しょっちゅう転んでいた。
誰からいわれたというわけではなく。ただ感じていた。当時は、歩くのでいっぱいいっぱいだったことを覚えている。特に、早く車いすになりたいと思っていたわけではない。いつだったかは記憶にないが、ある時から、車いすのほうが安全だと思い、車いすで学校への登校を始めた。
学校では、長い距離の移動は、車いすで。教室では、歩くときもあった。
病棟では、部屋のベッドの周りではたっていた。
当時は、床にカーペットをひいて、いざって(床に尻をつけたまま、ずって移動のこと)いた。
1年くらいかな。その後は、床よりもベッドのほうが活動しやすいと思い、看護婦さんに相談してベッドでの生活に切り替えた。

D氏の場合
:小学生4年の時、ころびやすくなっていた。それでもまだ歩いていたが、装具の靴のかかとを車いすで踏まれて、こけてしまった。そのときにねんざをしてしまった。直った頃には歩けなくなっていた。
なるべく長く歩いていたかったとの思いはあったが、落ち込みはしなかった。