記事一覧

トップ > 2010年01月29日

まい・エピソード: D型

ファイル 824-1.jpg
小学5年生になって初めて自分の病気が筋ジストロフィーであることを知った。
誰が何の病気かがわかる一覧表が、病棟の廊下に貼ってあった。
そこには、D型という文字が。。僕は、O型なのに、D型って。。血液型?と勘違いしたが、後に、それが、デュシェンヌ型筋ジストロフィーを表すDであることを知った。

再検査をして、自分の型がベッカー型のB型であることを知る。筋ジストロフィー?
名前だけは知っていたが、それがどんな症状をもたらす病気かは当時はまだ知らなかった。

まい・エピソード: 東京オリンピック

ファイル 823-1.jpg
昭和38年。札幌にある大学病院の整形外科病棟に小学校5年生と6年生の2年間入院した。入った病棟は大部屋で15人ほど。大人の人ばかりだった。
毎日検査ばかり。学校はなく、遊びといっても病棟を散歩するくらい。たまに、大人の入院患者さんに将棋を教えてもらった。
病院を抜けだしたこともある。その頃には、同じくらいの年齢の子もいて、数人で何度も抜け出した。病院の近くには、焼き芋屋やトウキビ屋があり、よく買って食べたことがあった。

翌年の昭和39年には、東京オリンピックが開催された。病棟では、テレビが一つだけあり。人だかりができていた。その頃、病院にまだ数少ない車いすにのってみた。興味があったからだが、こぐのが楽で早く動けた。それから、歩くのをやめた。今になってみると、ちょっと後悔だ。
中学になるときに、八雲に入院した。当時は、まだ養護学校はなく、ひまわり分校だった。養護学校の設立は昭和45年だ。
教室は、病院の中にあって、3つの部屋があった。午後からの授業だった。

まい・エピソード: ストレッチャー

ファイル 822-1.jpg
19歳。周りの人がバタバタと逝ってしまった。。
その日は突然だ。看護師さんがいつも部屋に来る時間に来なくなる。いつもは持ってこない、段ボールが置いてある。いつもと微妙に違う空気感。
Aがいなくなったときもそうだった。
夕方。僕のベッドの向かいのAが、具合が悪そうに、看護師さんに聞こえないくらいの小さい声で、「看護師さん来てー」と呼んでいた。ちょうど、夕食後のおやつを食べた後だ。

「どうしたー?」「インターホン押せるかー」ってきくと、「逃げられたー」って。自分も焦ってしまい押せなく、隣に頼んだ。
すぐに看護師さんが駆けつけたが、だんだんと意識が落ちていた。
アンビューバックでベッドごと運び出された。
僕はずーーと、ドクドクなっていた。しきりに部屋の人に、「大丈夫かな?」「帰ってくるかな」って悲しくなって聞いていた。
「帰ってくるサー」

夜8時くらいまで誰もこなかった。
遠くから、「Aのばあちゃん呼んでー」っと看護師さんの声が聞こえた。
しばらくして、先生が、何もいわずに、部屋にはいってきた。ベッドのないそのスペースの棚をしばらく、眺めた後。
軽くおじぎをしていた。
遠くから、「カシャンカシャン」と、音が聞こえた。病棟の入り口の自動ドアの段差で、ストレッチャーが弾んだ音だ。
横になった僕のベッドから、遠くに、ストレッチャーにのった、タオルがみえた。
翌日、先に車いすにのった、同室の人に聞いてみた。
「どう?」「いなかった。。」
運ばれていった部屋には、誰にもいなかったようだ。
過ぎるのが早く、一瞬だ。泣いてもいられなかった。

その後、社長というあだ名でしばらく呼んでいた。名前で呼ぶとつらくなるからだ。
「ゲームやったり、すぐ泣いてたよねー」と友達と話した。

僕の目の前の空いたままの空間。しばらくの間辛かった。。