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まい・エピソード: くみたいそう

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筋ジストロフィーにとって、運動会ってあまりよい思い出がないと聞くが、僕はそうでもない。いろいろなことに挑戦する機会でもあった。
小学2年の頃、50メートルの徒競走は遅いけど出場した。
車いすになってからも、運動会にはなるべく参加し続けた。5年生なって、組み体操の種目が追加された。
先生からは、「どうする?」と聞かれたが、そういえば、普段の遊びの中で、友達が車いすの上で遊ぶことがあったので、それならばと、車いすを使って組み体操に出場できないかと担任と相談をすることになった。
どうやら、自分は危険な遊びを好むらしい。(^_-)
道理で、生傷が絶えないわけだ。

「先生も乗る気で、じゃあやってみようと」いうことになった。
ピラミッドの組み体操では、下の段が3人で上が二人、頂上が一人。僕は、下の段の端っこで、2段目の子が車いすの肘掛けに足をおいて、ピラミッドの形をつくった。

さて、次はブリッジだ。
ブリッジは、二人一組のペアになって、足をもって逆立ちをするような形になる。
僕の場合は、車いすの介助バーに足をかけて組むことにした。
実のところ、快く後押しをしてくれた担任の先生でも「ひっくりかえるのでは。。」ひやひやものだったらしい。(@_@)

まい・エピソード: 白いブリーフ

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僕の小学生時代の一つを語るなら、やはり、白パンツ事件だ。
それまでの僕はなんといってもトランクス派。
だって、どうみても、グンゼの白ブリーフだと、かっこ悪いでしょ!
小学4年生までは、手すりのある男性用便器の前で、担任の介助で立ち上がらせてもらい用をたしていた。
それが、小学5年生で、それまでの普通学級から特別学級への編入となり、いろいろなことが見直しになった。

授業は一緒だと聞かされていたが、体育はしょうがないにしろ、音楽や家庭科も別授業になった。いろんなことが不満で、僕の授業態度には、顔にありありと不満げな表情をうかべていた。ささやかな僕ができる抵抗だったのだと思う。
この時、それまでトイレにいっていた排泄が尿器に変わった。

先生からは、「社会の窓が開いている白パンツ(ブリーフ)をはきなさい」との衝撃発言。もちろん、答えはNOだ!
しかし、悲しいながら「でも、大変だから。。」の一声に説得されてしまったと記憶している。。

ある時、クラスメイトと、「白パンツってダサイよねー。」と談笑していた。自分も混ざって「だよねー」と相づちをうっていたが、当の自分もすでにズボンの下は“白パンツ”。苦笑いだった。(*_*)
発覚したのが、その年にあった修学旅行。
お風呂場での着替えの時に、「あーおまえ、白パンツじゃん。何はいてんのー。ダサーー。」と馬鹿にされてしまった。。
「だって、しょうがないじゃん。。」

後日談としては、その後1年で、担任の先生が替わり、小学6年で、教頭先生が担任になった。
出会った早々の言葉は、、
「先生、柄パンでもいいですか?」
「いいよ」の軽い答えに、自分の視界が少しだけ、開けた気分になった。

パンツといえば、小学2年のプール授業のあと。
パンツをはかずにズボンをはいて教室にもどったことがあった。濡れた体ではズボンがきつくはきづらかったからだ。
そこで、大失敗。「おーい。誰かパンツ忘れているぞー。誰のだ~」クラスメイトが手を挙げないと、先生が全員のパンツを確認する行為にいたった。。。(>_<)
最後は僕。見事、発覚。
教室のロッカーの隅ではくはめに。。。とほほである。

まい・エピソード: 30分

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 僕が歩かなくなったのは、小学校3年生の7月。小学校1年生より八雲病院に入院している。なぜそんなにはっきり覚えているかというと、夏休みの外泊した時に、立ち上がれなくなっていると気づいたからだ。夏休み前に、ベッドに座っていると、バランスを崩してベッドから転げ落ちた。そのときに、腕をついてしまったのだ。「やばい」一瞬そう思ったが、痛みもその時点では特になかった。しかしやはり夜になり腕が腫れ上がり、翌日レントゲンにて、ぽっきり折れていることをしった。それからは、また歩いていて転んでけがをしてはまずいとの判断で、治るまで車いすということになった。夏休みの外泊時、立ち上がれなくなっていた自分にはショックだった。「車いすにのっていたからだ。。」そう思ったがそれは事項自得。思いをぶつける場がなかった。
車いす生活になっても、今と違い、当時の病棟はほとんどの生活者が歩くか、いざりの生活である。学校までは、車いす。訓練室では、補装具をつけての歩行訓練。そして、病棟では、いざりで移動していた。9人クラスでも、たいがいのことは先生に手伝ってもらえるので、学校では不自由にことかかなかったが、病棟では、いざりの生活では、不便さがあり、歩けないというよりも、いざりである自分にくやしさがあった。
当時の病棟の生活は朝6時に始まり、みんなベッドから床におろされる。そして、プレールームまでいざりで移動し、食事をして、また自室に戻るのである。時間は30分。往復1時間移動についやすのである。